年が明けて、あっという間に一ヶ月が過ぎた。

 昨年の山林作業のまとめを年末に書こうと思ったが、仕事の忙しさに、つい忘れてしまった。今も例年のことながら、春に向かっての設計作業に追われる毎日である。かつてない不況下で、ややもすれば沈みがちとなり暗くなるときに、とりあえず走り回っているだけでも良いと思わねば。


 昨年、間伐した所。枝が気になるが日当たりは良くなった。
 「犬も歩けば棒に当たる」とよくいわれるが、走ってさえいればなんとかなりそうである。それにしても、今の日本の経済はどうなっているのだろう。国、地方の借金が700兆円、それ以外に公団公社等の公的機関の借金を入れたら、我々の想像をはるかに越えた金額であろう。実態がよく分からないだけに不安だ。政府は消費拡大にやっきになっているが、そのためには国、地方、公団などの実体を明らかにして、破綻企業の再建計画のように将来のビジョンを明確にすべきであろう。そこから再生のプロセスと国民のコンセンサスが生まれる。

 某有力政治家が、国債を発行して景気の刺激をと、まるで念仏を唱えるがごとく説いているが、多くの国民は単純には信じないであろう。この10年間、100兆円ともいわれる公共事業を実施して、結果的には有効な景気対策になっていないことを国民は良く知っている。今は無理しないで静かに耐えるときかもしれない。

 かつて私の親戚の古老がいった。「家を存続するには余計なことをするな」

 まさに、この時代の格言の感がある。時代の大きな変革期は原点に帰り、まず足元をみて行動せよ、ということだ。時は確実に刻み、時代が変化する。しかし未来には、変わる未来と変わらない未来がある。凡人にとってはとりあえず、変わらない未来を見直し、そこから新しい手法や価値を見出すことが重要かもしれない。

 特に忘れかけた第一次産業は関心が低いだけに、多様な可能性を秘めた未開の大地のような気がする。林業は環境で森は語られるが、経済的な面からは語られることは少ない。それだけ再生の余地があるといえる。


 今年の植林予定地。何とか下ごしらえができた。50年後が楽しみ。
 私の家は細々ながら、300年も存続してきた。仏壇の過去帳を時々見るが、40人位の戒名の中に、江戸時代の勇ましい名もあれば、温和な名もある。それぞれの個性が見えるようで興味深い。この人たちが過去の激しい変革の時代に、どんな生き残りを模索し、後世に何を託したか聞いてみたいものだ。右往左往している現代の姿を見て「余計なことはするな」と一喝されそうである。過去帳はまさに後世への戒めにある。

 まずは木を見て、森を見ずにならないように、大局を見失わないことだ。

 昨年はわずかであるが、植林もやり、今年に備えて植林の下ごしらえもやった。40年生位の杉林の間伐をやり、その間伐林を私の叔母の増築に使うことができた。亡くなった祖父、父も喜んでいるに違いない。

 至ってこんな調子で今年も山に入り、先祖の見守る森の中で山仕事に汗を流すことは、これからの激しい時代の変革に大きな指差を与えてくれそうである。

2002.2.7