七月七日(土)

 今日は忙しい一日になる。午前中に仕事を片付けて、午後から鶴岡へと向った。夕方には山に入り、隣接する山林を購入する境界立合である。夜、所有者宅で正式契約を行うことになっている。

 購入した山林

 今まで宅地を購入することはあったが、山林を購入するのは初めての経験だ。宅地や事業用地の購入とは、全く心境が違う。それは現代の経済が優先する社会構造のスピードでは計りえない空間が、森林にはあるからだと思う。理由はともかくうれしい。ゴルファーが新しいクラブを購入する時と同じ感覚かもしれない。私も、ゴルフの練習で打球のイメージが合わないとついクラブが合わないのではと思い、価格の事など考えず購入した経験がある。まさに夢を買うようなもので、価格など気にならない。

 夢を追い求めることを愚かだと考える人もいるが、それは個人の価値観の問題で、他人が否定することはできない。人間の生命を超えた森の営みは、私達に夢を与えてくれる。山に縁のない人は、森は自然であり、自然は共有物で個人で所有するなど、想像できないかもしれない。所有者の視点からみると「木」に商品価値が産まれるのは、七十年から八十年はかかる。人間の一生とほぼ同じだ。


 バライチゴ。今の時期が美味しい
 木材の価値の低下と共に、山林の価値も低下し、足を向ける林家が少なくなり不在林家が増え、山が荒れ放題になっている。そんな状況で山林を購入するなど、あまり聞いたことがない。周囲からは物好きな人間だと思われているのがよくわかる。でも、何事にも変えがたい価値を見出だす出来事があった。

 昨年、遠くに住む親戚の法要があった。私から五代前の末娘の長男である。亡くなる二年前、私との会話の中で、かつて、私の祖父や、父、叔父などと一緒に山に入ったことなどを懐かしそうに語っていた。何ひとつ昔と変わっていないことを知らせると安心していた。その様子が電話を通じてよくわかった。時代が激しく変化しても、山はいつも泰然としている。この心象風景は、遠く郷里を離れた人達にとってかけがえのない存在なのだろう。

 松尾芭蕉の「夏草や、つわものどもが、夢のあと」の名句がある。まさにそのとおりである。


 ミズの群生
 幾多の年月の変化を見守りながら存在する森に、人は畏敬の念を抱き、信仰まで高まる。人はよく碑を建立するが、おそらく人の生命をはるかに超越した自然の生命力の偉大さに、本能的に後世へ存在を記すことが想像できる。

 森の杉木立を見ると、先人の苦労が偲ばれ、碑とどこか共通するものがある。山林の購入も、先人にはとても及ばないが、自分で成しえることができて良かった。これから先も植林をはじめ、様々な山の作業を行うだろう。それに関わった人達も心の隅にいつまでも記憶されるのだと思う。さらに後世で、時の記しとして、鮮明に蘇るであろう。

 山林の持つ環境保全の役割も大切である。森の経済的自立も重要だ。しかし、それ以上に重要なのは、人間の持つ心象風景を醸成する役割にある。


 自生しているミョウガ
 親戚の古老がいった。
山持ちが山を大切にしないと家滅びる。含蓄のある言葉を聞かされた。

 今、山林で生計をたてるのは困難だ。不在林家が増えるのもうなづける。それぞれが職業をもっているのが実情である。しかし山林は家業として、気分転換のつもりで山に入れば、さほど苦にはならない。家業と職業を切り離して生活するのも、知恵かも知れない。要は、家業をおろそかにすれば家が滅びる。その代償は、何にも変えがたいものを失うような気がする。




2001.7.30