最近、森に対する関心が地球環境の保全への叫びとともに高まってきた。国内でも、林業家や建築家を中心に、森から家作りをしようとする試みが全国的な広がりを見せている。N.P.O.法人「緑の列島ネットワーク」などがその代表例である。私のような建築と林業に関わっている者にとってはまさに我が意を得たり。でも現実的には、そうたやすいことではない。木の伐採、搬出、賃引き…どれをとっても大変だ。しかし、そこに一歩踏み込んでいかないと解決にならないだろう。

 それを成し遂げた人がいる。わたしの古くからの親戚、加藤周一氏だ。彼の家は代々の林家で、庄内地域では有数の篤林家でもある。頑なに林業にこだわりつづけた結果が成し得たことだろう。


 加藤周一氏の農林大臣賞を受賞した林
 振りかえってみると、昭和三十年代後半から林業家は時代の変革に対応せず、流れにまかせるのみであった。良き時代が、改革を鈍らせたのかもしれない。外国産材の輸入の拡大、住宅着工件数の減少など、木材産業を取り囲む環境は、年々厳しくなってきている。しかし最近、森林に対する見直しと自然素材の必要性がうまい具合にリンクして、マスメディアの報道でも自然素材の大切さが聞かれるようになってきた。これからが林業再生へのチャンスかもしれない。

 一方で、住宅の品確法のようなユーザー保護をうたった法律が次々と打ち出された。品確法の成立は、住宅の性能表示、紛争処理、瑕疵担保といったユーザーを守ることを目的としている。裏を返せば、真剣に住まいを作っている者にとってこれほど屈辱的なことはない。


 加藤周一氏。木を伐採している
 住宅は、住む人と作る人が高い理念を共有して行う共同作業である。企業の論理を優先する業いではない。それぞれの専門業者が技を磨き、その技を提供して報酬を得る。そんな集団の共同作業だ。このことを認識しない結果として、品確法のような法律が必要になってくる。こんなときこそ、原点にかえり、建築を作りあげるシステムを考えることが大切だろう。林業も同じだ。

 かつて家作りは、施主や大工さんが一緒に山に入り、山の木を見て家をイメージして必要な材だけを伐採して作りあげたものだった。しかし、今のユーザーは、木に対する知識があっても、現実に森の木をみることはまずない。まして自分の家に使用される木がどこで生産されているかなど、知るよしもない。従って、木に対して鉄やコンクリートといった無機材料と同じ感覚でしかみれない。

 山の手入れ。下刈り

 節があってはダメ、木目はこう、多少の曲がりもダメ…。これでは木を供給する側にとっては大変だ。

 よく耳にする話で、スーパーで売られている野菜などの生鮮食品の例がある。パックに合わせた姿、形、大きさなど細かな条件が農家に課され、規格から外れた野菜は商品価値が下がるとして捨てられてしまう。なんと無駄なことをしていると思うだろう。消費者にとっては、多少姿、形がどうであれ、食材として大きな問題ではない。それよりも安く提供されるほうがありがたい。流通業者の都合で作るのは、本末転倒ではないか。要は作り手と食する人が相互に結果オーライであれば良いのである。


 上棟式
 林家と施主が直接山に入り、使用される木を眺め、そこから住宅を考える。今までとは違う夢が描けるかもしれない。

 そのためにも、山林の手入れを怠るわけにはいかない。藪をかきわけて山にはいるのでは夢も希望もわかないだろう。青々とした下草が茂った杉林が、見る者に自然の悠久の営みを感じさせ、木が自然素材であることを改めて実感させる。五十年、百年住宅はそんなところから生まれるのだ。その土地の木を使用し、木の個性に合わせた住まい作りこそ、風土に合致した耐久性のある健康的な住宅といえるだろう。

 法律や規制とは別の次元で真の住まいとは何かを考えるときなのかもしれない。

2001.6.16