先月は忙しかったせいか、山に入ることが叶わなかった。

 一ヶ月も山に入らないと、何かと気にかかる。今年、植林した杉が雑草にのみこまれて弱っているのではないか。いまだ足を踏み入れていない森の中では、杉が太いツルにからまれて、もがき苦しんでいるのでは、などと、森林所有者であれば、皆、同じような思いでいることであろう。

 特に人工林は人間の育児と同じで育林が必要だ。人間の場合は、20年が成人と見なされているが、杉は最低30年はまめに手入れが求められる。林家にとって、これが過重な負担となる。それでも最近は、人間も木と同じくらいの歳月を要する人が増えていると聞く。人間のほうが手がかかり、ずいぶんひ弱になったと考えさせられる。


 雨の中での記念植樹 50年後が楽しみ
 近年、医学が進歩して、人生80年が当たり前になっているが、森のなかでは、300年、500年、1000年以上経た巨木が存在している。いわば人間の10倍以上の寿命だ。その間、天災や人災、さまざまな試練を乗り越えて、今に至っている。

 このことから、人間はいかに時間に対して、無定見で無神経かを知らされる反面、目を凝らして地表を見れば、たかだか数ヶ月の命の小生物が小さな世界で懸命に動き回っているのをよく見かける。

 森の生態系は、このように想像を越えた、気の遠くなるような生命と、瞬間的な生命まで、実にバラエティに富んでいる。まさに森羅万象をみる。

 人が自然に惹かれ、森に入るのは、日常生活では見られない、さまざまな生き物たちの生命の営みに接し、己の人生と重ね合わせ、自然界の無常感を知るところに、人は心を癒されるのであろう。


 雨の中でも植林作業
 いずれ森に入ると面白い。大きな自然のなかで、小さなアリの集団が、めまぐるしく動き回っている。なぜ、そんなに急ぐのかと感心させられるが、アリの一生は人間の一生と比べれば瞬間だ。しかしアリの小さな一歩とて、馬鹿にはできない。目的に向かう行動は、人間の一歩とさほど大きな違いはないのだ。

 違いがあるとすれば、人間には他の動物にはない知があり、それによって学問や科学が進歩し、文化が醸成された。人間社会以外では見られないことであろう。

 しかし、これはあくまでも自然の生態系のなかで順応していることが大前提となる。人間が文明に奢り、生態系が崩れたときには、一瞬にして廃墟と化する。過去の歴史を見れば明白だ。

 

 竹の子採り 300本ほどの収穫
戦後の日本は高度成長を遂げ、均衡ある国土の開発を唱えた。そして日本列島改造論が生まれ、ハード面では大変便利になった。当時としては、政策的には決して間違ってはいない。その後の政策が的確であったかは疑問だが、今になって失われたものが多いことを忘れてはならないであろう。均衡の名のもとに画一化され、地域性が失われつつある現実に多くの国民が疑問を感じ、さまざまな人があらゆる角度から見直しを模索していることからうかがえる。

 最近、地方の時代とよくいわれるが、まずはその地域の歴史をひもとき、古さを知ることが大切だ。そこから未来が見えてくる。

 ITの発達によって奥深い山里でも離島でも、いかなるところでも情報は共有できる。かつてのような情報の優劣は国内においては、ほとんどないに等しい。新しい情報が地方から発信されることが多くなったことからもわかる。

 つまり、これからの日本はこれまでのような経済成長は、あらゆるデータから見ても、大きな期待は望めない。国民も望まないであろう。

 何よりも固有の文化を持った地域社会を育むことがその地域の優位性を高め、自立へとつながり、ゆとりある豊かさが実感できることを国民は感じ取っている。

 過去の歴史を見ても、政治経済が困窮している今は、変革に向けて中央からの発信はかなり困難と思われる。その意味では地方の果たす役割は、今後大きくなるであろう。

 今はアリの一歩のように、無理をせず、目的に向かうことが肝要かもしれない。

 幸い、地方にはあらゆるものを包みこみ、受け入れる大きな懐がある。一面的かもしれないが、都市にみられる貧困さはどこにもない。

 そこから真の豊かさがわかる。


 祖父が植林した70年生の杉

 手入れの終えた竹林

2002.7.20